男
女
キミ・先生
机に男が突っ伏している。
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
男は突然起き上がって叩くように目覚ましを止めた。
男「午前六時半か、結構早く起きれたな。」
男「そう言って今朝、僕は目覚めました。今日は一限から、大好きな化学のテストがあったのです。」
男「六時半。僕はこの時間に起きたのです。確かにそこに僕はいたのです。しかし、次の瞬間!」
男は目覚まし時計を手にとって見る。
男「(ゆっくり視線をもとに戻しながら)時計の文字盤は、テスト開始時刻の九時四十分を指していました。」
男「(時計を戻して)僕は、二度寝を、してしまったのです。」
男、机に突っ伏す。
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
男は急に起き上がって叩くように目覚ましを止めた。
男「学校へ行くと、先生が鬼のような形相でたっておられました。『どうしてテストを受けなかったのか』とお聞きになったので、僕は『はい!二度寝をしてしまったからです!』と、明るくハキハキ答えました。が、正直に答えたにも関わらず、先生はぼくをお許しにはなりませんでした。正直者が救われる世界は死んだのです。」
机上の目覚ましが鳴り響く。
男は渋々目覚ましを止める。
ふと、ノックの音。
女「(幕内より)ちょっと、いるんでしょ?」
男「いないよ。」
女「分かった、入るわよ。」
女が歩いてやってくる。
男「僕は『いない』と言った。」
女「あらそう。そんなことより、さっき先生から電話があったわよ。」
男「あっただろうね。」
女「今朝のテスト出なかったそうじゃない。」
男「出なかったよ。」
女「一体どうしたって言うの?」
男「『はい!二度寝をしてしまったからです!』」
女「(ため息をついて)あなた、馬鹿じゃないの?」
男「僕は馬鹿ですね。」
女「二度寝ですって?」
男「ええ。」
女「あなたいくつ?」
男「いくつに見える?」
女「そうね、子供に見えるわ。」
男「(咳払いをして)見た目は子供、頭脳は」
女「(遮って)頭の中も子供よ。」
男「待て、それじゃあ完全な子供じゃないか。」
女「そうよ。子供だわ。」
男「僕はもう十八歳だ。もう子供じゃない。」
女「そう、じゃあ『見た目は大人、頭脳は子供』ね。」
男「なるほど、それなら…(一考)それはただの馬鹿じゃないか。」
女「さっき自分で馬鹿だって言ってたじゃない。」
男「これは。一本取られたな。」
男は笑い始めた。
女「何がそんなに可笑しいの?」
男「自分がこんなに可笑しいんだよ」
女「そうね。オカシイわね。」
男「(急に真剣になって)一人にしてもらえるかな。」
女「えぇ。反省する気は無いようだし。」
男「僕は二度寝した事実を正直に述べたつもりだけど。」
女「正直者が救われる世界は死んだのよ。知ってた?」
女は部屋から出ていった。
男「彼女は僕を馬鹿にしましたが、『正直者が救われる世界は死んだ』ことぐらいなら僕にも分かります。世界は嘘つきに救われているのですから、その世界が正直者を救うはずなんてありはしません。それでも僕は正直者でありたい。何故なら正直者であり続けることによって──」
台詞を遮るように、机上の目覚ましが鳴り響く。
男は叩くように目覚ましを止めた。
男「正直者であり続けることによって…正直者で…えぇい、忘れてしまったじゃないか。こんな時はどうすれば良かったのでしょうか。──あぁ、そうだ。トイレへ行こう。」
男は部屋から出ていった。
舞台はトイレ。
男はおまるを持って来て、椅子の上に乗せて腰かけた。
男「一人考え事をするには、トイレは最適なのです。では失礼。」
男は考える人のポーズを取った。
どこからか、キミが忍び足でやってくる。
男は気付かずに考える人になっている。
やがてキミは徒にちょっかいを出し始めるが、男はキミに気付けない。
キミ「(痺れを切らして)ねぇ!」
男はようやくキミに気付いた。
しばらく固まった後、奇声をあげて、おまるの上に仁王立ち。
キミ「うるさいな、一体どうしたって言うんだ。」
男「(錯乱しながら)どこから入ってきた?」
キミ「そんなことどうでもいいじゃないか。まずは落ち着きなよ。」
男「(錯乱しながら)トイレに、一人で、僕は。」
男は、ふと気づいたかのように、おまるから降りる。
男が椅子を回すと、トイレの水が流れた。
キミ「そう。トイレの流水音は心を落ち着かせる。正解だよ。」
男「君は誰だ。」
キミ「野暮なことを聞くもんじゃない。『キミ』は馬鹿なのか?」
男「僕は馬鹿だ。」
キミ「そうか、ならば教えてあげよう。僕は『キミ』だ。」
男「キミ?可愛らしいというか、卵みたいな名前なんだな。シロミもいるのかい?」
キミ「どうやら本当に馬鹿ならしい。良いかい、もう一度言うよ。僕は(人差し指を男に突き付けて)『キミ』なんだ。」
男「僕?君は僕だって言うのかい?」
キミ「そう言うんだよ。」
男「何を馬鹿な。僕は僕だ。キミじゃない。」
キミ「僕は『キミ』なんだ。ところで僕を馬鹿呼ばわりしたが、確かに僕は馬鹿だよ。僕はキミなんだからね。良い証拠じゃないか。」
男「馬鹿なんか世の中に仰山いる。それよりも、まず容姿が違うじゃないか、声も違う…(思い付くだけ、違う点を挙げて)…こんなに相違点があって、どうして同一人物と言える?」
キミ「(溜め息を付いて)参ったな、『キミ』がそんなに屁理屈だとは思っていなかった。」
キミはおまるに座った。
キミ「容姿に何の意味がある?同じ格好だったら同一人物だとでも言うのかい?例えば『キミ』の破片を、訳の分からない機械にかけると『キミ』が出来るらしい。クローンとか言うやつだね。さて、『キミ』とクローン『キミ』を並べてみると、相違点は殆ど無い。それでは『キミ』は、クローン『キミ』を見て、同一人物と言えるかい?」
男「言えるわけがない。別人だ。」
キミ「そう、そうなんだよ。容姿が同じでも別人。それならば容姿に相違点があっても別人だとは言えないだろう?」
男「屁理屈だ。」
キミ「そう、僕は屁理屈だ。それと同時に、さっきも言ったが『キミ』も屁理屈なんだよ。」
キミ「容姿で他人とは決めつけられない。となると、大事になってくるのは中身だね。そうなると話は簡単だ。僕も『キミ』も、馬鹿で屁理屈だ。何と2つも類似点があるじゃないか。これを奇遇と呼べるかい?」
男「確かに僕は馬鹿で屁理屈だが、それだけじゃない、正直者でもある。君は──?」
キミ「そうなるとやはり僕も正直者、と言いたいところだが、これには一種のパラドックスが生じる。よってその質問には答えかねる。」
男「パラドックスというと?」
キミ「正直者に『汝は正直者であるか』と聞けば、『はい』と返ってくるだろう。しかし嘘つきに同じ質問をしても、『はい』と返ってくるだろう。よってその質問は意味をなさないんだよ。そんなこと『キミ』もわかっているだろう?」
男「なるほど、確かに僕も君も思考は同じなようだ。君は馬鹿で屁理屈で正直者だ。」
キミ「当たり前だね、僕は『キミ』で、『キミ』は僕なのだから。」
僕「しかし、どうして君─もう一人の僕が、僕の前に現れなきゃいけないんだ?」
キミ「それは…」
ふと、トイレにノック音が響く。
キミは驚いて跳び跳ねた。
女「ちょっと、入っているの?」
男「入ってないよ。」
女「分かった、入るわ── !」
女はトイレの扉を少し開け、寸でのところで気付いて引き返す。
キミは男と女のやり取り中に小走りで駈けていった。
女「馬鹿!」
男「僕は馬鹿だよ。そして君もね。」
女「『入ってない』って言ったじゃない!」
男「言ったよ、しかしそれで、本当に『入ってない』と言う確信には、普通至らない。」
女「とんだ屁理屈こきの嘘つきね!鍵ぐらいかけなさい!」
女は苛立ちながら去っていった。
男「僕が…嘘つき…?『いや、僕は嘘つきじゃない。』」
沈黙。
男「パラドックス…一見矛盾しているようだが、真理を含む…なぁ、君はどう思う?」
と、男はキミを探すが、もうそこにキミはいない。
暗転。
明るくなる。舞台は部屋。
男が机に突っ伏している。
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
男は突然起き上がって叩くように目覚ましを止めた。
男「午前六時半か、結構早く起きれたな。」
男「そう言って今朝、僕は目覚めました。今日は一限から、大好きな化学のテスト返却があったのです。」
男「六時半。僕はこの時間に起きたのです。確かにそこに僕はいたのです。しかし、次の瞬間!」
男は目覚まし時計を手にとって見る。
男「(ゆっくり視線をもとに戻しながら)時計の文字盤は、始業一時間後の十時半を指していました。」
男「(時計を戻して)僕は、二度寝を、してしまったのです。」
男、机に突っ伏す。
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
男は急に起き上がって叩くように目覚ましを止めた。
男「学校へ行くと、先生が鬼のような形相でたっておられました。『どうして返却に出席しなかった』とお聞きになりました。四日前に正直に答えても許してもらえないと考え、咄嗟に『老人に道案内をしてました!』と、明るくハキハキ嘘を吐きました。が、嘘を吐いたので、先生はぼくをお許しにはなりませんでした。嘘つきが救われる世界は既に死んでいるのです。」
机上の目覚ましが鳴り響く。
男は渋々目覚ましを止める。
ふと、ノックの音。
女「(幕内より)ちょっと、いるんでしょ?」
男「いないよ。」
女「あら、そうなの。」
沈黙。
男「何か用があるんじゃないのか。」
女「あら、いない人に何を言っても無駄だわ。」
男「悪かった、いるよ。それで何のようだい。」
女「(入ってきて)何のようだって、自分でも分かっているでしょう。」
男「君に何か言われるようなことが沢山あるんだよ。教えてくれないか。」
女「そうね、じゃあまず、テスト返却に出席しなかったそうじゃない。」
男「出席しなかった。」
女「どうして?化学は、お情けでテストを受けさせていただいて、ただでさえ評価が低いのに?」
男「君だけには、本当のことを話そう。この前のトイレで随分傷付けたようだから。」
女「あら、お優しいのね。それで?」
男「(真剣な眼差しで)…キミのことを考えていた。」
女「…え?」
妖しい雰囲気が漂う。
男「キミのことがどうにも頭から離れなくって、それで…」
女「ちょっと、ちょっと待って。どういうこと…?」
男「そういうことさ。」
妖しい雰囲気が漂う。
女「…見くびって貰っちゃ困るわ。」
男「え?」
女「そんな冗談信じると思うの?私はそんなに軽くない──」
男「(遮るように)僕は本気だ!ふざけてなんかいない!僕は今キミしか考えられないんだ!」
女「わ、私…?」
男「違う、君じゃない、キミだ。」
女「…え?」
妖しい雰囲気は音を立てて崩れ去った。
女「わ、私じゃない…?」
男「そうだ、君じゃない。何を勘違いしているんだ。」
女「…………………」
女「……キミって何?玉子?」
男「違う、僕は黄身は好きじゃない。白身派だ。」
女「じゃあなんなのよ。キミって。おばあさんの名前?」
男「違う、どうしてそこで、おばあさんが出てくるんだ。」
女「道案内したそうじゃない。」
男「あぁ、それは先生に吐いた嘘であって、本当は──」
女「嘘?何を言っているの?さっき、おばあさんから電話があったのよ?」
男「…え?」
女「『助かりました、ありがとうございます』って。荷物も持ってあげたそうじゃない。別れ際に、名前を聞いたら電話番号を教えてもらった、って言ってたわよ。」
男「いや、僕は二度寝をして、十時半に起きて──」
女「何を言っているの?私が出掛ける前に、意気揚々と家を飛び出して行ったじゃない。」
男「君が出掛ける前、と言うと八時前に?僕が?」
女「私は八時に出たけど、あなたは七時前に出て行ったわよ。」
男「七時前?七時半でなく?そんな─そんな馬鹿な─」
女「どうせ私は馬鹿よ、でもね、確かにあなたは七時前に家を出ていったし、おばあさんの道案内をしたの。」
男「──」
女「でもね、いくら良いことをするにしても、時には断らないといけないわ。あなたの場合は、化学のテスト返却があったでしょう?」
男「──」
女「あんまりお人好しだとね、社会では良いカモにされてしまうのよ。」
男「──少し、一人にしてもらえるかな」
女「えぇ、反省したようだしね。」
男「いや、違う僕は二度寝を──」
女「嘘つきが救われる世界は既に死んでいるのよ、知ってた?」
女は部屋から出ていった。
男「彼女は僕を馬鹿にしましたが、『嘘つきが救われる世界は既に死んでいる』ことぐらいなら僕にも分かります。世界は嘘つきに救われているのですから、その世界が嘘つきをを救うことは出来ません。それでも僕は嘘つきでありたい。何故なら嘘つきであり続けることによって──」
台詞を遮るように、机上の目覚ましが鳴り響く。
男は叩くように目覚ましを止めた。
男「いや、今はこんなことを話している事態ではない。僕は昨夜、キミのことが頭から離れなかったが為に中々寝付けず、二度寝をしてしまったはずなのです。しかし彼女は僕が七時前に家を出たと言う!一体、何が起こっているのか分かりません。こんな時はどうすれば良かったのでしょうか。──あぁ、そうだ。トイレへ行こう。」
男は部屋から出ていった。
舞台はトイレ。
男はおまるを持って来て、椅子の上に乗せて腰かけた。
男「ここ三日間、僕はキミの姿を見ようと、トイレに何度も籠るのですが、キミは中々出てきません。何か条件があるのかも知れません。思い出せ、あの日、僕は何をした?」
男は考える人のポーズをした。
どこからか、キミが忍び足でやってくる。
男は気付かずに考える人になっている。
やがてキミは徒にちょっかいを出し始めるが、男はキミに気付けない。
キミ「(痺れを切らして)ねぇ!」
男はようやくキミに気付いた。
しばらく固まった後、歓声をあげて、おまるの上に仁王立ち。
キミ「うるさいな、一体どうしたって言うんだ。」
男「(喜びに沸きながら)どうやって現れた?」
キミ「そんなことどうでもいいじゃないか。まずは落ち着きなよ。」
男「トイレで、僕は、いつも通り、」
男は、ふと気づいたかのように、おまるから降りる。
男が椅子を回すと、トイレの水が流れた。
キミ「そう。トイレの流水音は心を落ち着かせる。正解だよ。」
男「君はどうやったら現れるんだ?」
キミ「野暮なことを聞くもんじゃない。『キミ』は馬鹿なのか?」
男「僕は馬鹿だ。」
キミ「そうか、ならば教えてあげよう。『キミ』が真に一人になるときさ。」
男「真に一人?それがどうしてトイレで考える人のポーズを取るときなんだい?」
キミ「どうやら本当に馬鹿ならしい。良いかい、まず、トイレこそ真に一人になれる場所。これはわかるかい?」
男「一人になれる場所なら、他にもあるじゃないか。風呂とか、布団とか。」
キミ「どうやら恥を掻きたいようだね。まぁ、幼い頃は家族と風呂に入ったり、寝たりするだろう。大人になっても入るかもしれない。ところがトイレと来たら、殆ど個室に誰かと入ることは無い。風呂や布団に比べたら圧倒的にね。」
キミ「誰も入ってこない、自分だけの空間。回りには壁、錠、ちり紙。さらには腰を掛ける便座まであると来た。」
男「じゃあ考える人のポーズは?」
キミ「それは特に関係ない。ただ、この三日間は姿を表すことができなかった。『キミ』が僕のことを考えていたから。」
男「どうして君のことを考えたら出てこれないんだ?」
キミ「それは、そういうものなんだよ、無くし物を探してるときは滅多に出てこないが、別の物を探していると出てくるようなものさ。」
男「なるほど。さっきの僕は、『どうやったらキミに会えるか』、ではなく『四日前に僕はトイレで何をしたか』を考えていたから君が出てこれたんだ。」
キミ「そういうことさ。一度理解すれば頭の回転が速い。まぁ『キミ』は僕なのだから当たり前だね。」
男「では何故、四日前から姿を現し出した?この間は聞きそびれてしまった。」
キミ「そうだねぇ。質問を質問で返すようで悪いんだが、ここ最近変わったことはなかったかい。」
男「なかったね。」
キミ「嘘を言っちゃあいけない。自分に嘘を吐いても何も良いことはないぜ。」
男「では正直に言おう。僕は今朝、二度寝をした。」
キミ「あぁ。」
男「ところが一方で、僕はおばあさんの道案内をした。」
キミ「それで。」
男「どちらか一方が間違っているに違いない、君は何か知らないか。」
キミ「(不適な笑みを浮かべ)そうだねえ、何か知っているかもしれない。」
男「教えてくれ、君は何を知っているんだ。」
キミ「結論から言おうか。どちらも『正しい』。『キミ』は二度寝をして、道案内をしたんだよ。」
男「馬鹿な。僕が夢遊病だとでも言うのか。」
キミ「夢遊病で道案内が出来るわけ無いだろう。」
男「ならば、どういうことなんだ。」
キミ「まだ、まだ分からないのかい?傑作だねえ。」
男「からかうのもいい加減にしろ。」
キミ「分かった─分かったよ、教えてやる。だが本当に真相を聞いて良いのかい?知らない方が幸せって言う事実もあるんだぜ。」
男「なんなんだ─なんだって言うんだ。」
二人は動きを止め、見つめあう。
まるで時が止まったかのよう。
キミ「そう、さっきも言ったけど、『キミ』は確かに二度寝をした、しかし。」
キミ「──道案内をしたのは僕だ。」
男「どういう、ことだ?」
キミ「『キミ』が寝ていたと思っている六時半から十時半は、『キミ』は、僕だったんだよ。」
男「僕が、君だった?」
キミ「そう、そうなんだよ、『キミ』は僕になりそして─」
キミ「僕は『キミ』、つまり僕になった。」
男「(絶句)」
沈黙。
男「つまり─僕が二度寝をしていたその時間に─」
キミ「僕は起きて、ばあさんに道案内をしていた。そして布団に入って─」
男「─僕は十時半に目が覚めた。」
キミ「それが真相だよ。」
沈黙。
男「嘘だろう、そんな馬鹿な。」
キミ「嘘と言えば『キミ』は、二度寝を誤魔化すために、『道案内をした』と、咄嗟に嘘を吐いたね。咄嗟に嘘を吐くというのは簡単なことじゃない。嘘というのは、必ずどこかに真実の影が隠れているものなんだ。今回の『道案内』の嘘もそれに同じ。君は身体の一部に刻まれた『道案内』したという真実を、口に出しただけに過ぎないんだよ。」
沈黙。
男「何故、何故そんなことが─」
キミ「(ため息混じりに)もううんざりなんだ。『キミ』を見ているとね。」
男「なにを──」
突然、トイレにノック音が響く。
キミは驚いて跳び跳ねた。
女「ちょっと、入っているの?」
男「は、入っている。」
女「分かった。」
キミは男と女のやり取り中に小走りで駈けていった。
男「(譫言)あ、あぁぁ、何だって言うんだ、何だと言うんだ。」
女「ちょっと、どうしたの?大丈夫?」
男「(譫言)消えちまった、何だったんだ、何だったんだ。」
女「何、トイレットペーパーが切れたの?」
男は、ふと気づいたかのように椅子を回して、トイレの水を流し、トイレから出てきた。
男「何でもない、何でもないさ。」
女「嘘つき。顔色が悪いわよ。大丈夫?」
男「なぁ、僕は七時頃家を出たんだね。」
女「やっと思い出した?」
男「そのとき、僕に何か変な様子は無かったかい。」
女「変なことを聞くのね。特に無かったけど。」
男「そうか、そうなのか。うん。」
女「どうしたの?今の方が様子が変よ。具合が悪いのなら病院に行った方がいいわ。」
男「ん、あぁ。病院か、病院ね。行ってみようか。ありがとう。」
男はふらついた足取りで消えていった。
不安げに見守る女。
暗転。
診察室に、白衣を纏った先生がいる。
待合室では男がぐるぐると歩き回る。
先「次の方どうぞ。」
男「はい、失礼します。(診察室に入る)」
先「えぇと、それで今日はどんな。」
男「えぇ。信じてもらえかもしれませんが──」
先「大丈夫、大丈夫。ホラ、話してごらんなさい。」
男「実は…もう一人の僕がですね──」
先「あぁ、そのカードゲームなら知ってます。息子が漫画まで買ってきちゃって。」
男「違う、違うんです。カードは関係ありません。その、何て言ったら──」
先「あ、はいはい。分かりました分かりました。初めから関係ないと言っていただかないと。」
男「はぁ。」
先「それでは詳しい話をお聞きしてもよろしいですか?」
男「はい。実は、かくかくしかじかで。」
先「ははぁ、かくかくしかじか、ですか。」
男「そうなんです。どうすれば…」
先「大丈夫、大丈夫。うしうしうまうま、何てことは?」
男「えぇ、もうその通りです、うしうしうまうまなんです、本当に。」
先「ふむ、ふむふむ。」
男「似たような症例でもありますでしょうか。」
先「恐らく、急性一過せ…いてて、舌を噛んじまった。ともかくそういうことです。」
男「そういうことですか。」
先「えぇ、いぬいぬねこねこ、な症状が主な特徴です。」
男「いぬいぬねこねこ、ですか。当てはまる気もします。」
先「では、一応お薬をお出ししましょう。さるさるきじきじ、を和らげます。」
男「ありがとうございます。」
先「お大事に。」
場転。
男は、女が待つ部屋に戻ってきた。
男「ただいま。」
女「お帰りなさい。どうだったの?」
男「どうやら『急性一過せ…いたた、舌を噛んじまった』らしい。いや、『いてて』だったかな。」
女「どういうことなの?」
男「そういうことらしい。さるさるきじきじを和らげる薬、貰ってきた。」
女「そう…。今日は早く寝た方がいいわ。きっと疲れてるのだろうから。」
男「そうさせてもらった方が良いらしい。すまない。」
男は机に突っ伏した。
女はそっとその場を離れる。
暗転。
明け。
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
男は突然起き上がって叩くように目覚ましを止めた。
男「午前六時半か、結構早く起きれたな。」
男「そう言ってこの十日間、僕は目覚めました。」
男「六時半。僕はこの時間に起きたのです。確かにここに僕はいるのです。そして次の瞬間!」
男は目覚まし時計を手にとって見る。
男「(ゆっくり視線をもとに戻しながら)時計の文字盤は、一分進んで六時三十一分を指していました。」
男「(時計を戻して)僕は、僕でした。」
男、机に突っ伏す。
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
男は急に起き上がって叩くように目覚ましを止めた。
男「九日前、学校へ行くと、先生が申し訳なさそうにたっておられました。『すまなかった、嘘かと疑ってすまなかった』と仰ったで、僕は、『いえ!先生は悪くはないのです!』と、明るくハキハキ答えました。先生はぼくをお許しにはなりました。嘘つきが救われる世界が産まれたのです。」
机上の目覚ましが鳴り響く。
男は渋々目覚ましを止める。
女「(幕内より)ちょっと、いるんでしょ?」
男「いるよ。」
女「ちょっと、入るわよ。」
女が歩いてやってくる。
男「おはよう、良い朝だね。」
女「おはよう。調子はどう?」
男「良い案配だよ。」
女「よかった、さるきじの薬が効いたのね。」
男「そうだろうね。変な医者だったが腕は確かだな。」
女「結局、何だったの?」
男「『急性一過せ…いたた、舌を噛んじまった』らしい。」
女「それはこの前聞いたわ。結局それは何だったの?」
男「君だけには、本当のことを話そう。ここ数日心配をかけたから。」
女「あら、お優しいのね。それで?」
男「実は…もう一人の僕が──」
女「あぁ、そのカードゲームなら知ってるわ。弟が全国の決勝戦まで行ったの。」
男「違う、違うんだ。カードは関係ない。その、何て言ったら──」
女「あら、違うの。初めから関係ないと言ってくれなきゃ。」
男「うん。」
女「それで?」
男「実は、かくかくしかじかで。」
女「(信じられない様子で)かくかく…しかじか…?」
男「それで、うしうしうまうま。」
女「(驚いたように)うしうま…?」
男「いぬいぬねこねこ。」
女「いぬねこ…!それが、『急性一過せ…いたた、舌を噛んじまった』なのね?」
男「そうらしい。」
女「それで、さるきじの薬だったの…」
男「ここのところ、忙しくて疲れてたからな。」
女「えぇ。まだ寝てた方がいいわ。」
男「そういうわけにもいかない。学校に行かなくちゃ。」
女「あら、今日は学校なの?」
男「あぁ、今日は祝日だったか?」
女「いいえ。でも。」
男は身支度を始めた。
男「さてと、行ってくるよ。(部屋を出ようとする)」
女「待って。」
男「なんだい。」
女「やっぱり、やっぱり寝ていた方がいいわ。」
男「どうしてだ。早めに行かないとラッシュアワーになる。」
女「──今日はラッシュアワーは来ないわ。」
男「変なことを言うんだね。ラッシュアワーの苦しさを知らないのかい?」
女「それくらい私でも知ってるわ。ねぇ、寝た方がいいわ。」
男「どうしたと言うんだ、君らしくもない。何か虫の知らせでもするのかい。そういえば今日は13日の金曜日だったな。」
女「お願い─お願いだから、休んだ方が──」
男「しかし、今日は化学のレポートの提出期限だ。行かねばならぬ。」
男は行こうとするが、女は必死でそれを食い止める。
女「お願い、行かないで。」
男「離してくれ、もう列車が来てしまう──」
男は腕時計を見た途端、動きが止まった。
沈黙の中に二人の震えた息だけが聞こえる。
男「今日は──今日は何日だ。」
女「─」
男「今日は、14日の土曜日なのか?」
女「─」
男「僕の時計が壊れてるのではなく、本当に14日の土曜日なのか?」
女「─そうよ。今日は13日の金曜日じゃないわ。14日の、土曜日よ。」
男「馬鹿な。そんな馬鹿な。」
女「違うの、違うのよ。あなた昨日は一日中寝ていたの。」
男「嘘を言え。そうならば真っ先に言うだろう。僕は起きていたろう。」
女「本当に、本当に何も覚えていないの?昨日のこと。」
男「僕は、僕はどんな様子だった。」
女「いつもと、変わりはなかったように思えるわ。」
男「変わりない─変わりないのか、そうか、そうか。」
女「あの、」
男「少し、一人にしてもらえるかな」
女「でも、」
男「一人にさせてくれ。」
女「──」
男「出ていけと言っているだろう!」
女は部屋を駆けて出ていった。
男「─待て、待ってくれ、戻ってきてくれ。」
へんじはない。
男「行っちまった、行っちまった!僕は、僕は一人になっちまった!」
ふと、どこからか足音がする。
男「誰だ、誰だ。来るな、来るんじゃない。僕は僕だ。僕は僕だ─!」
見えない足音に叫び続ける男。
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
男は時計を手にとって、何か恐ろしいものを見るような目付きで眺め、
その間にキミが部屋に現れた。
キミ「発車ベルが鳴っているねぇ。新たな旅立ちへの、祝福のベル。」
男は目覚ましを止め、振り向いた。
男「何が、何が祝福のベルだ。僕を乗っ取ろうとする悪魔め─」
キミ「僕が『キミ』を乗っ取る?馬鹿なことを言うんだね。僕は『キミ』であり、『キミ』は僕なんだ。自分で自分を乗っ取るなんて表現があるかい。」
男「僕は僕だ。僕は僕だ!君は僕を乗っ取ろうとしている。」
キミ「そう、確かに、厳密に言えば、僕は僕であり、『キミ』は『キミ』だ。だけど、乗っ取ると言うのは変だね。『キミ』を乗っ取ったって何も良いことなんかありゃしない。」
男「──」
キミ「いいかい、乗っ取るんじゃない。僕が『キミ』になるんだ。キミがボクになるんだ。『キミ』には出ていってもらうんだ。」
男「出ていけ、だと。僕は出ていかない、お前なんかに追い出される筋合いはない。」
キミ「ところがもう、時計は回り始めた。皆が右回りに回りだした。発車ベルが鳴り、列車は動き出す。『キミ』にはもう止められない、抗ったってどんどん痛むだけだ。」
男「これは─そうだ、悪夢だ。またいぬねこの症状が出ただけに過ぎない、君は、僕の想像の産物だろう。僕の想像が僕を裏切るものか。またさるきじの薬が効かなくなっただけなんだ、そうなんだ。」
キミ「さるきじの薬、ね。ふふ。」
キミは笑い始めた。
男「何がそんなに可笑しい?」
キミ「自分がこんなに可笑しいんだよ。」
男「そうだな。オカシイな。早く薬をもらいに行かねば。」
キミ「さるきじの薬、さるきじの薬!そいつは、『キミ』の、どんな病気に効くんだったかなぁ?」
男「『急性一過せ…いたた、舌を噛んじまった』だ。」
キミ「違う、違うよ。『いたた』じゃない。『いてて』だ。『キミ』は人の話をろくに聞けないのかい?」
男「そんな些細な勘違いに何の意味が─待て、どうして『いてて』だと分かる。」
キミ「それは、僕がそれほど濃くなってきているんだ。『キミ』が起きている間でも、僕は起きていられたんだよ。」
男「僕が起きている間でも、君が起きていた?」
キミ「そう。僕が起きている間は『キミ』は起きていないだろうね。記憶がないんだから。」
男「だけど、僕は老人を道案内をしたという記憶はあった。」
キミ「確かに、少しは起きていたようだが、これはどちらかと言えば、身体の記憶、肉の記録だよ。疲れている、という身体の記憶などは、数時間は忘れない。」
男「君の『いてて』も、身体の記憶じゃないのか。」
キミ「馬鹿を言え。鼓膜への振動が記録されていったら、時が回った分だけ、段々何を言っているのか分からなくなるだろう。」
男「─君は、さるきじの薬を使った途端消えたじゃないか。結局は僕の想像の産物だろう。」
キミ「さるきじの薬ねぇ。じゃあどうして、僕は消えたと思うんだい?」
男「それは、僕が正常になったからだ。君が見えていたのは異常だったんだ。」
キミ「じゃあ今、『キミ』は異常だというわけだ。その点に関しては正しい。何しろ自分と見つめあえないわけだからね。だが、さるきじの薬を服用していた『キミ』は正常どころじゃない、もっと異常だ。何しろ自分から逃げていたのだから。」
男「戯けを言うな、僕は僕だ。」
キミ「(無視して)さて、もう時間がない。『キミ』に何も言わないのは失礼極まりないから、教えてあげよう。確かに僕はさるきじの薬を使われて、起きるのをやめた。ただ、『やめさせられた』のではなく、『やめてみた』んだ。」
男「何だと。」
キミ「さるきじの薬で僕が起きているようなら、『キミ』はまた薬を飲んだだろう。『キミ』の勝手で身体を壊されるわけにはいかなかった。そしてもう一つ理由がある。」
男「──」
キミ「『キミ』を絶望の淵に立たせたかった。『キミ』の恐怖に怯えた(男の顔を指差し)この顔を見たかったんだ。」
男「──」
キミ「僕はサディストではない。だけど、恐怖に怯え、自分から逃げ出そうとする『キミ』を追い出すのは容易だ。」
男「──」
キミ「現に今、ここはトイレではないのに、僕が『キミ』に見えている。恐怖で誰も信じられなくなり、一人になったから。」
男「──」
キミ「そういうわけで、僕は十日間近く息を潜め、『キミ』が油断したところで──」
男「もう沢山だ、もうやめてくれ。僕が何をしたって言うんだ。」
キミ「(ため息混じりに)もううんざりだったんだ。『キミ』を見ているとね。」
男「なにを─」
キミ「逃げてばかりいる。『キミ』は自分から目をそらして逃げてばっかりだ。自分を見つめられぬ者が、他人を見つめられる筈もない。いつか、良くないことが起こる。」
男「逃げてなんか、いない─」
キミ「じゃあ僕をまっすぐ見たらどうだ。」
男「君は、僕じゃあない!」
キミ「驚いたね、これだけ言っても分からないなんて。やはり、僕は『キミ』を救わなければならない。」
男「救うだって。君は僕を痛め付けて追い出そうとしているというのに。」
キミ「『キミ』が出ていくことで、僕が『ボク』になることで、『キミ』は初めて救われるんだよ。それに痛め付けているのも、抗っている『キミ』自信だ。始めに言った筈だ。抗えば君は痛むだけだと。」
男「僕は─僕はどうなる。」
キミ「追い出されるんだよ。」
男「違う、追い出されてどうなる。」
キミ「さぁ、どうなるんだろう。僕には分からない。消えちまうか、別の命になるか、ペペロンチーノになるか。」
男「ふざけるな─」
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
キミ「発車ベルが鳴っているねぇ。新たな旅立ちへの、祝福のベル。列車はもう待つことはできないよ。」
男「あ、あ、あ。」
キミ「時間だ。さようなら、『キミ』。」
断末魔。
暗転。
目覚ましの音が止む。
部屋の外の、女だけに光が当たる。
女「ねぇ、大丈夫?」
男「あぁ。」
机上の男に光が当たる。
そこには『ボク』(男)のキミがいる。
男「大丈夫だよ。」
ふと、机上の目覚まし時計が鳴り響く。
―閉幕―
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